菅平高原観光協会

勝ちたいなら、菅平。

INTERVIEW

私の菅平 vol. 1
アテネ五輪女子マラソン金メダリスト
野口みずき(中編)

November.18.2019

写真・文/中島良平
取材協力/リゾートロッジすずもと 岩谷産業陸上競技部

2004年アテネ五輪女子マラソンの金メダリストで、先日には2020年東京五輪で日本人一人目の聖火ランナーを務めることが発表されたばかりの野口みずきさん。アテネ五輪前にトレーニングを行なっていたコースが「野口みずきクロスカントリーコース」となるなど、菅平とも馴染みの深い野口さんの全3回のインタビュー第2回。「勝ちたいなら菅平。」のサイトコンセプトに寄り、大舞台で勝つためのメンタリティやアスリートとしての競技の喜びについて話を聞いた。

初フルマラソンで優勝したけど、嬉しいようなほろ苦いような感覚

アテネ五輪の前にもトレーニングに使用した「野口みずきクロスカントリーコース」のスタート地点。

「野口みずきクロスカントリーコース」となっている牧場の上のコースは、標高1600mほど。十分に高地と呼べる高さであり、それ以外にも須坂方面や上田方面から上がってくる車道コースなども目一杯走った。多い月には1370kmを走破したというほどの圧倒的な練習量でも野口さんは有名だが、その土台には、高地における足腰と心肺機能のトレーニングがあったのだ。そして初めてのマラソン参戦が2002年。名古屋国際女子マラソンで初マラソン初優勝を果たす。だが、目標としていたタイムはクリアできず、即手応えを感じたわけではなかったという。

「私は最初からフルマラソンを目指していたわけではなかったんですね。ハーフマラソンをコンスタントに1時間8分台で走れていたので、フルマラソンも走れるかもしれないと思ったのが参戦のきっかけでした。私は大口を叩くタイプなので、名古屋の時には、当時渋井陽子さんが持っていた初マラソン世界記録を狙うと記者会見で言ってしまって、でも暑さもあってうまくいかず2時間25分台での優勝だったので、嬉しいようなほろ苦いような感覚でした。次の大阪国際女子マラソンを2時間21分台で走ったとき、『あ、行けるかもしれない』って初めて思えました」

そしてもう一つ、何よりも大きな刺激になったのが、2000年のシドニー五輪の女子マラソンで金メダルに輝いた高橋尚子さんの存在だった。

「見ていて『スゴい!』とも思いましたが、それよりも『私もこの歓声を独り占めにしたい』と、その同じ気分をイメージしちゃったんです。『気持ちいいんだろうな』って」

アテネ五輪のレース当日、スタートまで高まる緊張感

2001年に足を痛めて初マラソンを翌年に見送り、2002年の名古屋国際女子マラソンで記録的には不本意ながらも初マラソン初優勝を果たし、2回目のマラソンでたしかな手応えを感じる。野口さんは根っからのアスリートであり、勝つためのポジティブなメンタリティを持っていることがこのコメントから伝わってくる。そしてアテネ五輪のレース当日の話を聞くと、じつは体調が万全ではなかったのだという。

マラソンの由来になったマラトンの丘にもレース前にお祈りに訪れたと話す野口さん。

「アテネがすごく暑いので、暑いところで慣らす合宿をするのかなと思いきや、スイスのサンモリッツというところで直前の合宿をしたんですね。最初は涼しいところで大丈夫なのか不安もありましたが、暑いところでトレーニングをすると内臓疲労が残ってしまうし、長い距離の練習ができないこともあって、実際に行ってみたら正解でした。そこから少し暑さに慣らす意味でドイツのフランクフルトに下りて何日間か合宿をしたら、その年のドイツが冷夏ですごく涼しかったんです。そこで少し風邪気味になってしまって、アテネ入りしてレース3日前の記者会見でも仲のいい記者さんから心配されるぐらい喉がガラガラで。でも逆に、風邪を引いたことで吹っ切れたというか、緊張が一気にほぐれた感じはありましたね」

前日練習でも、軽く走ろうと思っていた宿舎近くの場所が工事中で、急遽移動を余儀なくされるなどの想定外の事態も起こったが、「夜はそれなりにワクワクと緊張の入り混じった感覚に」なった。

「いつもやっていることなんですけど、自分のベッドサイドのテーブルに、翌日一緒に戦うシューズと、ゼッケンをつけたユニフォームを置いて願掛けをして、そうするとなんか気持ちが落ち着くんですよね。モノにも何かが宿っている感じがするので、トレーニングでずっと履いていたシューズに『明日よろしく』なんて想いを伝えながら」

2004年8月22日、アテネオリンピック女子マラソンのレース当日。夕方の開催だったので、日中は気分転換に海岸沿いを散歩するなどして過ごした。ただ、「本当に今日レースやるのかな?」という気分が生まれるぐらい、ジリジリ刺すような暑さがあった。

古代オリンピックのトラックを走る特別な感覚

自身の経験を次世代に伝えるべく、現在は岩谷産業陸上競技部でアドバイザーを務める。

「筋肉の状態は程よい重さと張り感があって、本当にいい状態だったように思います。風邪で喉だけよくなかったぐらいで。会場に着いたらウォーミングアップとして20分ぐらいゆっくり走って、100mぐらいのダッシュを3〜4本やって、いつもと同じように大会で感じる緊張感が生まれてきました。スタート前に必ず監督とコーチに挨拶してから行くんですけど、その時にスパートのポイントをアドバイスしてもらいました。後半は下りなので、『お前は下りが苦手だから、その前の25km地点ぐらいからスパートしていけ』と。『はい』と答えながらも、スタートが近づいてくると『ちょっと待てよ、25km地点からまだ17kmもあるけど大丈夫なのか』という不安も出てきて、やはりスタート前に緊張はピークに達するんですよ。でも、スタートラインに立って、ピストルが鳴ったら、その瞬間に『ハッ』て切り替わるんです。もう行くしかないって」

夕方でも気温30度を超える酷暑のレースとなったが、25km付近から野口さんはロングスパートをかけ、しばらくは独走状態になった。そして、32km付近から続く下り坂に入ると一度突き放したキャサリン・ヌデレバに追い上げられたが、作戦が功を奏して野口さんはトップでゴールのあるパナシナイコスタジアムに入った。紀元前329年に建設され、1896年の近代オリンピックのために修復されたこのスタジアムは、古代オリンピックの名残で直線が極端に長い特徴的な楕円形のトラックを有する。

「スタジアムに入ったら、もうゴールしたくなかったですね。本当に古代オリンピックのトラックを走っているのは特別な感覚でしたし、観客からの途切れない拍手を浴びている時間をもう少し味わいたい、ゴールテープを切った瞬間に終わってしまうのが寂しいというか。スタジアム中から応援されているような、あの体験は本当に私の宝物です」

2位のヌデレバから12秒差で逃げ切ってゴールのテープを切った。

「じつは7月の頭にコースを試走したんですけど、その時は、パナシナイコスタジアムを見学しに行きました。本当は入れないんですけど、通訳さんが私を気遣って『この選手はオリンピックを走るマラソン選手だ』と警備員さんに言ってくれたら『でしたら中にどうぞ』となったんですが、私は入りたいと思っていたのになぜか足が止まってしまったんです。古代に戦っていた戦士や、競技に出ていた競技者たちに対して申し訳ないと思ってしまって。やっぱり私がここに入るのは、戦っている時じゃないといけないって。そんなこともあって、スタジアムに入った時に感情の高ぶりが大きかったのかもしれません」

「足が壊れるまで走りたい」を全うした現役生活

「最高の競技人生だった」と野口さんはデビューから引退までを菅平で振り返る。

オリンピックのマラソン競技で金メダルに輝き、そこから驚きなのが、翌年のベルリンマラソンで2時間19分12秒の大会新記録、アジア記録、日本記録を出して優勝してしまう強さだ。なんと、レース後に帰国して病院で診断したら、足の甲の部分にあたる中足骨という骨を疲労骨折をしていたというのだ。

「事前の合宿などは順調だったんですけど、日本に戻って準備をして、ベルリンに移動する直前、レース10日前の朝練習で、細かい砂利の場所に思いっきり足を乗せてしまって、その時に足の甲を痛めてしまったんです。もうそれから痛くて痛くて。普通に歩く分には痛くないですし、ポイント練習などで早く走って接地時間が短いと大丈夫なんですけど、ジョギングすると本当に痛くて。さすがに無理だと言いたくないし、そこまでやってきたという思いもありましたから、出場しか考えられませんでした。走ってみるとアドレナリンが出ていたからか、もう何も感じずに走れました。帰ってきて診断したら疲労骨折していましたからよく走り切れたなっていう感じですよね」

社会人として歩み始めたときの選手としての目標は、日本記録を出すことでもオリンピックでメダルを取ることでもなく、「足が壊れるまで走り続ける」こと。ベルリンマラソン後には、前回のインタビューでも述べられたように、北京オリンピックの出場も決まりながらも左足肉離れで欠場するなど、怪我と付き合いながら2016年まで現役活動を続けた。

「『努力は裏切らない』という言葉が好きなんですけど、その思いがあったので続けられたように思っています。最初のワコールの入社面接で「足が壊れるまで走りたい」と言ったんですけど、そういう自分の思いとか言葉の力っていうのは結構大事なんだなと感じています。ブレずにいればその通りになるんだなって。最高の競技人生だったと思っています」

次回、インタビュー最終回では、現役時代に二人三脚でお世話になった廣瀬永和監督のもとでアドバイザーを務める岩谷産業陸上競技部での指導など、引退後のランニングとの関わりについて話を聞く。

野口みずき
アテネ五輪女子マラソン金メダリスト
三重県出身。1999年、犬山ハーフマラソンで優勝(グローバリーに在籍)。以降、国内外のハーフマラソン大会で活躍し「ハーフの女王」と呼ばれる。2002年3月、初のフルマラソンとなる名古屋国際女子マラソンで優勝。同年8月の世界選手権パリ大会で2位(日本選手としてトップ)となり、アテネ五輪の代表内定。2004年8月22日、アテネ五輪女子マラソンで優勝。翌2005年のベルリンマラソンで2時間19分12秒の大会新記録、アジア新記録、日本新記録を出して優勝(2019年10月現在もアジア記録、日本記録)。2008年の北京五輪でも女子マラソン代表に選ばれるが、ケガで出場を断念。2016年4月に現役を引退。2019年より、選手時代に指導を受けた廣瀬永和氏が監督を務める岩谷産業陸上競技部でアドバイザーを務める。

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