菅平高原観光協会

勝ちたいなら、菅平。

INTERVIEW

勝つためのマネジメント vol. 3
全日本スキー連盟 皆川賢太郎(後編)

February.27.2020

ハンドレッドプロジェクトという未来への目標

菅平高原パインビークスキー場をナショナルトレーニングセンター競技特別強化拠点施設に指定した経緯を、皆川さんのインタビュー前編で聞いた。拠点を固定することで若年層が将来の目標を立てやすくなり、育成も含めて世代を超えた一貫した強化を実現できるという意図を説明してくれた。では選手時代、皆川さんはどのように「勝つためのマネジメント」を自身に施していたのか。そこには、全日本スキー連盟の強化担当として日本スキー界を底上げしようと尽力する、現在の活動の背景が見て取れた。

写真・文/中島良平

残念ながら2日目の男子回転は中止になってしまったが、Audi FIS アルペンスキー ワールドカップ2020 にいがた湯沢苗場の開催直前合宿は、菅平パインビークスキー場で実施された。

小学6年でデータに基づいたトレーニングを開始

インタビュー前編で、皆川さんが現役時代にオリンピック入賞の成績を残し、37歳まで選手生活を続けられた原点を「小学6年生でたまたま奇跡的な出会いに恵まれたこと」と語っていた。何があったかというと、新潟県の中越地方出身で、苗場をベースに少年時代から競技活動を続けていた皆川さんは、小学6年生の時にたまたま上越地方の妙高で練習をする機会があった。そこで宿泊していた宿の主人から、ある誘いを受けた。

「ソニーの盛田財団が、自分たちが幼少期を過ごした妙高に恩返しをするために、妙高にスキー場を作り、地域の夢を支援するプロジェクトとしてオリンピック選手を輩出するプランを打ち立てた時期でした。若い選手の育成の走りです。そのプロジェクトのために海外からコーチがやってきて、参加選手のセレクションを行う大会が開催されて、私は中越出身者だから該当者ではなかったけど宿のご主人が『前走として参加させてあげる』と主催側に話を通してくれて、前走として滑ったんです。そうしたら、参加選手の中からセレクションする予定が、外国人コーチの目に留まったのが前走の自分だったんです」

「自分のケースはあまりに特殊だ」と皆川さんは常々理解していたという。だからこそ、奇跡的な出会いのない多くのダイヤの原石が、きちんと磨かれる環境を作ることこそが底上げにつながるという考えを持つに至った。

また、小学6年でスタートした外国人コーチとのトレーニング方法も、それまで続けてきたこととはまるで異なっていた。科学的データに基づき、着実な強化、上達を目指す方法だった。その経験がまた、徹底的な反復練習を行える拠点を持つべきだと考え、菅平高原パインビークスキー場をナショナルトレーニングセンターに指定することに至った背景にある。

皆川さんの現役時代の姿。

「私についてくれたコーチは、採血をして乳酸値を見てその日のトレーニングの強度を決めるんです。乳酸値を見てハイジャンプ数値を毎朝測り、その日の滑走本数を決めるんです。私が疲れてると言っても、『数字は疲れていないと言っている』と返してくるわけです。そういう風に本数を決めるのと同時に、スラロームだとポールが左右にポンポン立つわけですけど、『今日は9メートル幅で角度は45度ね』といった具合に。角度と距離の組み合わせで本数も徹底して滑るわけです。そうすると、得意と苦手が見えてくるので、反復することでその苦手をなくしていく。菅平を強化拠点にしようと思ったのは、徹底した反復練習が必要で、それを国内でやるなら菅平がベストだからと考えたからなんです」

その経験が、皆川さんのトレーニング方法の確立、勝利に近づく道を切り拓くアプローチ方法に大きく作用した。すべてを理詰めで考える。苦手があったとしたら、できないことがあったとしたら、苦手と感じる理由を、できない理由をなくしていく作業がトレーニングだと考えるようになった。トリノオリンピック男子回転で4位になった時にも、やはりそれまで結果を出せていなかったオリンピックとアプローチを変えることが大きく作用した。

「ソルトレイクまでは口を開けば『メダル取りますよ』と人に話して、自分で自分の背中を押すようになっていました。口にしないと人に伝わらないと思っていたし、それが自分を強くするとも思っていた。でもトリノのときは、そんなことはもうどうでも良くて、ここでスタート台に立てることを本当にありがたいと思って、自分の人生でこんな緊張感はもう味わえないかもしれないと思うほどの緊張感があったので、それを味わおうという気持ちになったんです。そうするとゾーンに入るというのももう超えたような、気持ちが膨張するような高ぶりが生まれて、本当にいい時間を感じることができました」

菅平で培う基礎が日本スキー界を発展させる

菅平パインビークのリフト右手のゲレンデが、ワールドカップ直前合宿のトレーニングコースとなった。

自分を出し切ることや、そこで最高の滑りをするというのも超越して、ただ純粋に本当に気持ちよく滑り切る体験をした。その結果が自身最高となるオリンピック4位であり、日本人男子として50年ぶりに達成した快挙だった。

強化指導を行う立場になった皆川さんは、やはり日本に1998年の長野以来となるオリンピック招致をベンチマークとして考えているのだろうか。最後に具体的な目標について次のように話してくれた。

「菅平は夏のラグビー合宿なども盛んで宿舎も多く、スポーツへの関心と理解がとてもある土地だと思っています。そして、晴天率が非常に高く、標高も高いので気温が下がる。アルペンスキーのトレーニングでは硬いコースを作る必要があるので、その雪質を担保できる国内でも数少ない場所です」

「オリンピックがもし2030年に札幌で開催されることになったら、そこまではいかなくても招致を行うことが決まったとしたら、それは長野の時と一緒で発展のためのモチベーションになると思います。自分があと10年このポジションにいることを想像しているわけではないんですけど、私はハンドレッドプロジェクトという目標を掲げていて、会員数100万人、売上高100億円を目指しています。それが何年をかければ達成できる目標なのかはわかりません。

でも、結果は過程があって初めて生まれるものなので、その過程となる道筋を整えてあげれば、いつか誰かが結果を出してくれるかもしれない。でも誰も始めなければ、そういう結果も過程も何も起こらない。そのために目標を立てて助走をするのが自分の仕事だと思っています。そこに偶発的に色々な人がステークホルダーとして入ってくれて、肥大していったときにうまくいくのだと思っています」

菅平パインビークが日本アルペンスキー代表の聖地となるか。
新国立競技前のジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエアを背に。

皆川賢太郎(みながわけんたろう)全日本スキー連盟強化部門競技本部長
1977年、新潟県出身。日本体育大学2年在籍時の1998年長野オリンピックに出場後、2002年ソルトレーク、2006年トリノ、2010年バンクーバーまで4大会連続で五輪に出場。トリノでは4位に輝き、日本人選手として50年ぶりとなる入賞を果たす。2014年に現役を引退し、15年より全日本スキー連盟常務理事に、17年より強化部門トップとなる競技本部長に就任した。
https://www.facebook.com/kentaro1up/