菅平高原観光協会

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INTERVIEW

勝つためのマネジメント vol. 2
パナソニック女子陸上競技部監督 安養寺俊隆(中編)

September.13.2019

写真・文/中島良平

全日本実業団女子駅伝(クイーンズ駅伝)で2017年、2018年と2連覇を果たし、今年も11月末に開催される同大会3連覇を目指すパナソニック女子陸上部「パナソニック エンジェルス」。若きチームを率いる安養寺俊隆監督は、選手たちの自主性を重んじ、またスポーツに適した体をつくるべく「食べて勝つ!」の活動方針を採用。見事に結果を出している。前回のインタビューでは、おもに菅平での合宿マネジメントについて話を聞いた。全3回のインタビューの第2回では、そのルーツとなった選手時代について語ってもらう。

選手たちが早朝のランニングから戻ると、瞬発力を意識したトレーニングを実施。

大学卒業から3年のブランクを経て現役復帰

京都産業大学の陸上部で3年生の後期から主将に就任。その直後にウイルス性心筋炎という病気にかかってしまった。「集中治療室に入院し、ドクターストップがかかったんですけど、私は一応責任感が強い人間なので」と笑いながら当時のことを安養寺監督は説明する。

「大学の最後まで選手として走って終わりたいと思っていたし、まだ全日本大学駅伝大会を走ったことがなかったので、最後にどうしてもメンバーに選ばれて走りたいと思っていました。退院後はスポーツドクターにカルテを移し、診察してもらいながらできる範囲でトレーニングを続け、4年間走りきりました。実業団から誘いがなかったわけではないんですけど、自分の体を労る必要を感じたので、一般就職をして社会人の道を歩むことに決めました」

全日本大学駅伝で京都産業大学は4位を記録し、有終の美を飾った。卒業後には資生堂に入社し、営業を担当した。美容部員や店舗の従業員を取りまとめ、お店の育成と成長、お客さまの喜びを目指しながら売り上げを伸ばす仕事だ。

病気と向き合いながらトレーニングを続けた末、全日本大学駅伝でメンバーに選ばれ、4位を記録。
資生堂では営業担当としても成績を残した。

「当然私には販売目標や達成しないといけない売上金額があるわけですが、そればかりを考えて一人一人の販売担当にノルマを課すことには違和感がありました。一番大事なのは、美容部員や販売従業員がどれだけやりがいを持って仕事をし、接するお客さんがその美容部員たちのファンになってくれるかが大事だと考えていました。それでリピート客が生まれれば、自然と商品は売れる。美容部員たちがそういう風に働きやすい雰囲気、環境をつくるのが私の一番の仕事だと思い取り組みました。サーバントリーダーシップというリーダーシップスタイルで、今監督として自分がやっている指導法の原点です」

召使い、使用人を意味するサーバント(servant)。リーダーが上から命令してチームを引っ張る「支配型」ではなく、組織のメンバーが最大限の力を発揮できるように「支援」し、環境づくりを行うリーダーシップを安養寺監督は心がけた。女性社員をまとめた資生堂時代から女性アスリートを率いる現在まで、その方法論は一貫している。

選手時代の話に戻そう。

高校の後輩が五輪でメダルを獲得

前日夜にお酒を飲んでも、翌朝は6時半に集合して監督も走る。

入社して約3年間、営業に専念して仕事を続けた。しかし、走ることが嫌いで陸上をやめたわけでもなければ、心筋炎が再発することもなく健康も維持していたので、ランナーとしての身体能力もマインドも安養寺監督の中には消えずに眠っていた。

「25歳のときに資生堂の社内運動会で駅伝大会があって、そこで結構目立った走りをしたので人事部長から声を掛けられたんです。女子のランニングクラブが少しずつ結果を出し始めていた頃で、男子も数人選手がいて、『ニューイヤー駅伝の出場を目指そうと思っているので、君も走らないか』と。まだブランクは3年でしたからそこそこ走れましたし、メディカルチェックでも問題はなかったので、色々と葛藤もあり悩みましたが、実業団ランナーの道に進むことに決めました」

半年に一度程の頻度で主治医の診察を受けながら、日々のトレーニングを行った。まずは大学時代の記録を出せるように体力を戻し、そこからどれだけ遠くまで進めるのかを考えた。目標としたのは、個人種目で日本選手権に出場して結果を出すこと。一つ大きな刺激となったのが、1992年のバルセロナオリンピックのマラソンで森下広一選手が銀メダルを取ったニュースだった。

「森下くんは私の高校の2年後輩でした。彼になぜ苦しいトレーニングを続けられるのか、レースを最後まで諦めずに足を動かし続けられるのか、そんな話をすると彼は口癖のように“だって勝ちたいじゃないですか”って当然のことのように言うわけです。高校時代から本当に強いランナーだと感じていました。そう言っていた彼がオリンピックで銀メダルまで取ったわけです。自分も頑張ろうってなりますよね」

27歳で日本選手権に初出場。3000m障害をメインに活躍を続けた。

資生堂ランニングクラブの男子選手には基本的に指導者がいなかったので、自分で考えて自主練習を行うか、在籍する他の選手たちと話し合いながら合同で練習するかのいずれかであった。大学時代の練習メニューをアレンジしつつ、自分に足りない部分を意識しながらトレーニングを続けた。やらされて続けるのではなく、自主的に調整力を身につけることで、徐々に試合でも結果を出せるようになってきた。

「27歳で初めて日本選手権に出場できて、順調にタイムも伸び始めたように思えたのですが、30歳を越えたあたりで練習がいまひとつ調子が乗らなくなったことがありました。思ったように走れなくなってきて、主治医の先生に相談したら肝機能があまり良くないと言われました」

31歳で自己ベストを更新

食事は体をつくり、またメンタルにも大きく作用する。

若い頃は暴飲暴食を続けていた安養寺監督。どんなに食べても飲んでも練習をこなせば太ることはなかったし、暴飲暴食できるぐらいの内臓の強さが長距離選手には必要だろうぐらいに思っていた。しかし、肝機能の調子を戻すことでパフォーマンスも変わるのではないかと考えた安養寺監督は、しばらく禁酒をしてみることに決めた。

「お酒を我慢してトレーニングするようになって、まず1ヶ月ほど経った頃に体が楽に動くようになりました。本当にすごく軽くなったように感じたんです。そして3ヶ月後の日本選手権まで禁酒を続けると納得のいく練習が積めて、『このレース絶対走れないわけがない!』って自信を持てたというか、スタートラインに立った時に清々しい気持ちになれましたし、自分の納得いく走りができました」

31歳の日本選手権で自己ベストを更新し、5位に入賞した。33歳でプレーイングコーチとして選手と指導者の両方の役割を担うようになったが、自分が予選をクリアして出場できる間は競技にもこだわり続け、35歳まで日本選手権に出場。34歳と35歳で出場した大会では3000m障害の年齢別日本記録を出し、2019年現在も破られていない。

「自分のベストパフォーマンスは31歳から32歳にかけてでした。肝機能の話で一度断酒をしてからは、独学ですが食事に気を使うようになり、自炊合宿をするなど自分でも料理をするようになりました。そうなると自分で買い物にも行くし、食材の栄養素を気にしたり、何をどういう時間帯に食べた方がいいのか勉強することで、知識が増えていきました」

35歳で現役を引退。資生堂ランニングクラブでコーチ、監督を歴任したが、コーチ在任中に順天堂大大学院スポーツ健康科学研究科で学び、博士課程前期過程を修了したことで自身が選手時代に得た経験、培った知識を体系化した。それが現在、若きパナソニック エンジェルスのマネジメントのベースとなっているのだ。インタビュー最終回の次回、指導する選手たちのキャリアのマネジメントについて話を聞く。

体の動かし方で気づいた点は、トレーニング中もすぐに共有する。

安養寺俊隆(あんようじとしたか)
パナソニック女子陸上競技部監督
1965年、鳥取県生まれ。京都産業大学卒、順天堂大大学院(博士課程前期課程)修了。高校時代に陸上を開始するも、大学卒業とともに競技の道は引退。1988年に資生堂に入社し、25歳で同社の実業団選手として復帰。3000m障害を中心に活躍し、35歳まで日本選手権に出場する(日本選手権5位、国体4位、つくばマラソン優勝・大会記録保持者)。資生堂ランニングクラブ監督を経て、2016年よりパナソニック女子陸上部「パナソニック エンジェルス」監督を務める。